2008年11月28日
至福の晩
皆様お元気ですが。
自宅では相変わらずパソコンが思うように使えず,往生してます...
******
憂さ晴らし,というわけではないのですが,昨夜は県の文化ホールにファジル・サイのピアノを聞きに行って参りました。
おそらくチェスト愛好者皆様の中にも聞きに行かれた方は多かったのでは。
労音のクラシック・コンサートのお客さんって,時にクラシック音楽の将来が心配になるほど,ご高齢の方ばかり,ということが多い。しかし,昨日は会員以外の方も多かったらしく,客席は比較的バランスの取れた年齢構成になってました。
肝心のピアノですが,素晴らしかったです。
自由というかエンターテナーというか,プログラムの音楽を自家薬籠中のものにしているというか,本当に聞いていて楽しかったです。
あえてキャッチコピーをつければ,クラシック界のキースジャレット!(当たってるかどうか責任はもちませんが)
一番感動したのは,アンコールの一曲目かしら。あれは彼のオリジナル?それとも即興?だれか教えて下さい。
西洋のリリシスムとオリエントのメランコリーが混交一体となっているような音楽で,感涙ものでございました。
...あまりにこの曲に感動したので,その後に演奏された,つまり最後の曲となった,アレンジされたトルコ行進曲は余計に思えましたが...
*******
コンサート後は,忘れた携帯を取りに行く予定だったのですが... ホールと出ようとするや,仕事の仲間とばったり鉢合わせ!
最近は,職場以外でも中々会うことがないので,一緒に軽く食事をすることに。
こうなれば,繊細な舌と華麗に料理をかたる言葉を併せ持った彼にすべてをお任せすることに....
「今晩は,寿司なんかどう?」
「お任せします」
ってな感じで,天文館の寿司屋へ。
その寿司屋さんは,マンガのモデルにもなったことがある鹿児島では有名な店らしいのですが,諸般の事情でまだ行ったことがありませんでした。
寿司屋のカウンターで,板前さんとネタに着いてあれこれ話しながら,寿司を頂くなんて,何年ぶりかしら?
まだ,シッポが元気に動いている車エビのにぎりを塩で頂いたり,味の濃厚な北海道産ウニのにぎりを生で頂いたり。
炙り白子の握りも美味でした。(もちろん,トロ,ヒラメ,カズノコなども美味しかったすが)
〆は,店特製の茶碗蒸しと,リンゴのシャーベット。
薄給の私には,結構な値段でした...
もっとも,彼がなじみの店に行く時には,いつもそれなりの覚悟を決めて行くことにしていますので...
確かに... 値段に見合うお味でした!
しばらく回転寿しには行けそうもありません。
************
おいしい寿司に舌鼓を打ちながら,話し込んでいるうちに時間はあっと言う間に過ぎてしまい...
昨日も,クレープ屋さんに携帯を取りに行きませんでした。
でも,携帯なんかよりも,いい音楽,美味しい食事,仲間とのはずむ話しの方が大事ですから...
本当に楽しい夜でございました。
これで,メインのiMacが回復してくれたらな〜〜〜
自宅では相変わらずパソコンが思うように使えず,往生してます...
******
憂さ晴らし,というわけではないのですが,昨夜は県の文化ホールにファジル・サイのピアノを聞きに行って参りました。
おそらくチェスト愛好者皆様の中にも聞きに行かれた方は多かったのでは。
労音のクラシック・コンサートのお客さんって,時にクラシック音楽の将来が心配になるほど,ご高齢の方ばかり,ということが多い。しかし,昨日は会員以外の方も多かったらしく,客席は比較的バランスの取れた年齢構成になってました。
肝心のピアノですが,素晴らしかったです。
自由というかエンターテナーというか,プログラムの音楽を自家薬籠中のものにしているというか,本当に聞いていて楽しかったです。
あえてキャッチコピーをつければ,クラシック界のキースジャレット!(当たってるかどうか責任はもちませんが)
一番感動したのは,アンコールの一曲目かしら。あれは彼のオリジナル?それとも即興?だれか教えて下さい。
西洋のリリシスムとオリエントのメランコリーが混交一体となっているような音楽で,感涙ものでございました。
...あまりにこの曲に感動したので,その後に演奏された,つまり最後の曲となった,アレンジされたトルコ行進曲は余計に思えましたが...
*******
コンサート後は,忘れた携帯を取りに行く予定だったのですが... ホールと出ようとするや,仕事の仲間とばったり鉢合わせ!
最近は,職場以外でも中々会うことがないので,一緒に軽く食事をすることに。
こうなれば,繊細な舌と華麗に料理をかたる言葉を併せ持った彼にすべてをお任せすることに....
「今晩は,寿司なんかどう?」
「お任せします」
ってな感じで,天文館の寿司屋へ。
その寿司屋さんは,マンガのモデルにもなったことがある鹿児島では有名な店らしいのですが,諸般の事情でまだ行ったことがありませんでした。
寿司屋のカウンターで,板前さんとネタに着いてあれこれ話しながら,寿司を頂くなんて,何年ぶりかしら?
まだ,シッポが元気に動いている車エビのにぎりを塩で頂いたり,味の濃厚な北海道産ウニのにぎりを生で頂いたり。
炙り白子の握りも美味でした。(もちろん,トロ,ヒラメ,カズノコなども美味しかったすが)
〆は,店特製の茶碗蒸しと,リンゴのシャーベット。
薄給の私には,結構な値段でした...
もっとも,彼がなじみの店に行く時には,いつもそれなりの覚悟を決めて行くことにしていますので...
確かに... 値段に見合うお味でした!
しばらく回転寿しには行けそうもありません。
************
おいしい寿司に舌鼓を打ちながら,話し込んでいるうちに時間はあっと言う間に過ぎてしまい...
昨日も,クレープ屋さんに携帯を取りに行きませんでした。
でも,携帯なんかよりも,いい音楽,美味しい食事,仲間とのはずむ話しの方が大事ですから...
本当に楽しい夜でございました。
これで,メインのiMacが回復してくれたらな〜〜〜
Posted by 日曜日 at
09:04
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2008年11月26日
iMac逝く...
こんにちは...
さっそくですが,昨日の午後,メインのパソコン,自宅で愛用していたiMacが逝ってしまいました。
もう2〜3年は頑張ってもらおうと思って,今年の正月明けにはオフィスの最新ヴァージョンと,最新OSレパードをインストールしてやったのに...
一応週末に修理に出すでだけは出そうとは思っていますが... どうなることやら。
トホホ...
しばらくは更新が難しいかもしれません。
トホホ...
まだ,携帯も取りに行ってません。
トホホ...
では,ごきげんよう。
お元気で...
さっそくですが,昨日の午後,メインのパソコン,自宅で愛用していたiMacが逝ってしまいました。
もう2〜3年は頑張ってもらおうと思って,今年の正月明けにはオフィスの最新ヴァージョンと,最新OSレパードをインストールしてやったのに...
一応週末に修理に出すでだけは出そうとは思っていますが... どうなることやら。
トホホ...
しばらくは更新が難しいかもしれません。
トホホ...
まだ,携帯も取りに行ってません。
トホホ...
では,ごきげんよう。
お元気で...
Posted by 日曜日 at
12:44
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2008年11月25日
月面散歩(まだまだ続く...)

お久しぶりでございます... 皆さん,お元気でいらっしゃいますか...
連休は如何でしたか?
私は連休らしい,ノンビリした三日間でございました。
特記することといえば,テレビで見た庄司紗矢香のヴァイオリンくらいでしょうか...
そう,何もない三日間になるはずだったのですが...
タイトルから,内容がご想像できる方は,小生の愛読者でございます。いつも有り難うございます。
********
実は,また携帯を無くしてしまいました。
気がついたのは,昨日24日の午後。なくしたのはその前日の23日!
そうなんです,携帯,休日は滅多に使いません。連休なので,今回はなくしたことに気がつくのに20時間以上を要しました!
23日の行動を思い出して... 出かけた場所は2カ所なので早々に電話することに。
図書館では,該当するものは保管してないとのこと。
もう一カ所は,行きつけのクレープ屋さん。ガレット+クレープ+リンゴ酒の三店セットは若かりし頃によく食していたせいか,経済難民として鹿児島に流れ着いてからも,数ヶ月に1度は体内に取り込まないとやっていけないのでございます。
で... どうしてそこに忘れたかというと...
店の手伝いをしている方が,23日はたまたま私の知り合いで... レストランで働くのが好きで,定職を持ちながら,この店で時々バイトしているという話は本人から聞いてはいたのですが... まさか連休の最中にもお仕事とは!...
結局の所,彼女が注文を取りにきたり,皿を下げにこられる度に,「何か話さないと」と緊張してしまいまして,結局その方との応対に気を取られて携帯が犠牲になったという始末。
手伝いの方が,妙齢(適当に年齢を入れて下さいな)の独身女性であることは言うまでもありません(容姿も勝手にご想像下さい)。
店の名前は... ご勘弁下さい。
********
携帯ですが,昨日は知人に食事に誘われたりで,まだ取りにいっておりません。私は今日の昼下がりまでは暇なのだけれど,お店はお休み。... それ以降は,お店は開いていても,私が結構ハードな一週間...
トホホ...
次回のエントリーでは,も少しまともなお題に致します。 続きを読む
Posted by 日曜日 at
09:44
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2008年11月21日
皆さんのおかげ...
... 日常生活での私のことを少しでもご存知の方にはよ〜〜く納得して頂けると思いますが,私は酷いやつです。
まあ,他人に素直に感謝できないというか...ところが1日に3度も他人から助けてもらうと... ちょっとだけ,世の中を見る目,自分を見る目が変わって参ります。
1)今朝,出勤途中市電に乗っていると雨が降り始める。
私が下りる頃にはかなりの本降り。
「シャ〜〜ない,走るか」と覚悟を決めて,電車を降りるや,なんと!なんと!電停にはちゃんと置き傘がしてあるではありませんか!!!
傘には,カエルが傘をさしているイラストと,「しでん」という文字がプリントしてあります。ちょっとくたびれてはいるけれど,一時の雨をしのぐには十分です。おかげで,雨には濡れずに済みました。
2)勤務先に到着。
早々に書類年末調整の書類提出。これも,よ〜〜く考えたら... 〆切は15日。私が勝手に20日と勘違いしていたのでありました。
しかも昨日は書類不備で,さらに一日待ってもらっていたのでした。私自身,どうせまた,確定申告はするのだけれど,各部署から回されてくる年末調整の書類の処理で忙しい時に,担当の方から終止笑顔で対応されると,ほんと〜〜に,ありがたいのと申し訳ないので,お辞儀のしまくり。
3)昼食を取りに,職場のすぐ側にある茶店に入るや,小銭入れを忘れてきた(!!)ことに気がつく。お冷やはもらったものの,まだオーダーしてなかったので,小銭入れを取りに戻るべくママさんに事情を説明すると... ママさん曰く「今度でいいですよ」と笑顔で一言。
ちなみ私,常連では決してありません。この店に初めて来たのは今年の7月。しかも,この店に行くのは月に1〜2度程度。ママさんと話をすることもなく,店では料理が車でじっと黙って何かを読んで,食事が済むとそそくさと立ち去る,こんな感じです。
しかも,食事が終ったので,礼を述べて立ち去ろうとするや,「いつでもいいですからね,お忙しいでしょうから,今日お金をもってくる必要はありませんから。ついでの時で結構です」の一言...
喫茶店経営など,数百円を気にしていては務まらない仕事だとは分かっていても,こちらかすれば,ありがたいことに変わりはない。
... さて,我が身を振り返ってみる...
今日私は誰かに感謝されるようなことをしたかしら?これからすることがあるのだろうか?
まあ,他人に素直に感謝できないというか...ところが1日に3度も他人から助けてもらうと... ちょっとだけ,世の中を見る目,自分を見る目が変わって参ります。
1)今朝,出勤途中市電に乗っていると雨が降り始める。
私が下りる頃にはかなりの本降り。
「シャ〜〜ない,走るか」と覚悟を決めて,電車を降りるや,なんと!なんと!電停にはちゃんと置き傘がしてあるではありませんか!!!
傘には,カエルが傘をさしているイラストと,「しでん」という文字がプリントしてあります。ちょっとくたびれてはいるけれど,一時の雨をしのぐには十分です。おかげで,雨には濡れずに済みました。
2)勤務先に到着。
早々に書類年末調整の書類提出。これも,よ〜〜く考えたら... 〆切は15日。私が勝手に20日と勘違いしていたのでありました。
しかも昨日は書類不備で,さらに一日待ってもらっていたのでした。私自身,どうせまた,確定申告はするのだけれど,各部署から回されてくる年末調整の書類の処理で忙しい時に,担当の方から終止笑顔で対応されると,ほんと〜〜に,ありがたいのと申し訳ないので,お辞儀のしまくり。
3)昼食を取りに,職場のすぐ側にある茶店に入るや,小銭入れを忘れてきた(!!)ことに気がつく。お冷やはもらったものの,まだオーダーしてなかったので,小銭入れを取りに戻るべくママさんに事情を説明すると... ママさん曰く「今度でいいですよ」と笑顔で一言。
ちなみ私,常連では決してありません。この店に初めて来たのは今年の7月。しかも,この店に行くのは月に1〜2度程度。ママさんと話をすることもなく,店では料理が車でじっと黙って何かを読んで,食事が済むとそそくさと立ち去る,こんな感じです。
しかも,食事が終ったので,礼を述べて立ち去ろうとするや,「いつでもいいですからね,お忙しいでしょうから,今日お金をもってくる必要はありませんから。ついでの時で結構です」の一言...
喫茶店経営など,数百円を気にしていては務まらない仕事だとは分かっていても,こちらかすれば,ありがたいことに変わりはない。
... さて,我が身を振り返ってみる...
今日私は誰かに感謝されるようなことをしたかしら?これからすることがあるのだろうか?
Posted by 日曜日 at
18:21
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2008年11月20日
苦手なこと
英語,
物理,
数学,
水泳,
周りに気を配ること,
掃除,
お世辞を言うこと,
料理すること,
料理を褒めながら食べること,
人の話を聞くこと,
写真に撮られること
人にものを教えること,
誤字脱字のない書類を作ること,
やさしくキスすること,
何かに集中すること,
お金を貯めること,
とりとめのないことを話すこと,
メニューを手早く選ぶこと,
人を上手に叱ること,
思い切りよく大きな買い物をすること,
手紙を書くこと,
感情を表情に出さないこと,
字を書くこと,
忘れ物しないこと,
......
苦手なことは多いですが...
整理整頓は本当にダメ。
今日の午後は...デスクの周りを片付けるつもりで
出勤したのですが...
片付けているのか,乱しているのか...
.....
トホホ....
物理,
数学,
水泳,
周りに気を配ること,
掃除,
お世辞を言うこと,
料理すること,
料理を褒めながら食べること,
人の話を聞くこと,
写真に撮られること
人にものを教えること,
誤字脱字のない書類を作ること,
やさしくキスすること,
何かに集中すること,
お金を貯めること,
とりとめのないことを話すこと,
メニューを手早く選ぶこと,
人を上手に叱ること,
思い切りよく大きな買い物をすること,
手紙を書くこと,
感情を表情に出さないこと,
字を書くこと,
忘れ物しないこと,
......
苦手なことは多いですが...
整理整頓は本当にダメ。
今日の午後は...デスクの周りを片付けるつもりで
出勤したのですが...
片付けているのか,乱しているのか...
.....
トホホ....
Posted by 日曜日 at
17:45
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2008年11月19日
南国での出会い:宮崎出張日誌追記
おはようございます。
宮崎について,一番大事なことを書くのを忘れておりました。
出会ってしまいました!
**********
皆さんうどんはお好きですか?
私大好きです。日本にはこれほど安くて,手軽で,栄養のバランスのとれたファースト・フードがあるのに,どうして至る所にマクドナルドがはびこっているのか理解できません。これが戦争に負けた,ということなのでしょうか....
で。宮崎で出会いました,最強のうどんに。
個人的には,これほど安く,美味しいうどんを食したことはございません。
急いでいて,店の名前を覚えるのを忘れてしまいましたが(宮崎通のハリケーン殿にうかがわねば!),駅の構内にあるうどん屋です。
人気のあるうどん屋さんのようで,駅構内の店の中で唯一,列ができていました。
どうも本店はどこか別の場所にあって,構内の店は支店だと思います。
かけうどんがなんと!!!190円。しかも立ち食いではありません。麺は混ぜ物無し。ファミレス,うどん・そばのチェーン店のように,<コシ>があるかのごとく思わせるために混ぜ物(例えば,ナタデココ)なんていっさいないので,小麦粉の麺の柔らかい食感が味わえます。出汁も美味しかった。濃くなく,薄くなく,辛くなく,甘くなく。麺の美味しさを引き出すためでしょうか,とても穏やかな味付けでした。
ボリュームも抜群。
うどんといえば.... ゴボウ天。130円,無茶苦茶でかかった,しかもごぼうたっぷり。
これまで,色んなうどんを食して参りましたが,コストパファーマンスの高さ,麺の美味しさでいえば,これまでの私が食べた中で,唯一にして最高のうどんとと断言できます。
宮崎に行く楽しみが,また一つ増えました!!
宮崎について,一番大事なことを書くのを忘れておりました。
出会ってしまいました!
**********
皆さんうどんはお好きですか?
私大好きです。日本にはこれほど安くて,手軽で,栄養のバランスのとれたファースト・フードがあるのに,どうして至る所にマクドナルドがはびこっているのか理解できません。これが戦争に負けた,ということなのでしょうか....
で。宮崎で出会いました,最強のうどんに。
個人的には,これほど安く,美味しいうどんを食したことはございません。
急いでいて,店の名前を覚えるのを忘れてしまいましたが(宮崎通のハリケーン殿にうかがわねば!),駅の構内にあるうどん屋です。
人気のあるうどん屋さんのようで,駅構内の店の中で唯一,列ができていました。
どうも本店はどこか別の場所にあって,構内の店は支店だと思います。
かけうどんがなんと!!!190円。しかも立ち食いではありません。麺は混ぜ物無し。ファミレス,うどん・そばのチェーン店のように,<コシ>があるかのごとく思わせるために混ぜ物(例えば,ナタデココ)なんていっさいないので,小麦粉の麺の柔らかい食感が味わえます。出汁も美味しかった。濃くなく,薄くなく,辛くなく,甘くなく。麺の美味しさを引き出すためでしょうか,とても穏やかな味付けでした。
ボリュームも抜群。
うどんといえば.... ゴボウ天。130円,無茶苦茶でかかった,しかもごぼうたっぷり。
これまで,色んなうどんを食して参りましたが,コストパファーマンスの高さ,麺の美味しさでいえば,これまでの私が食べた中で,唯一にして最高のうどんとと断言できます。
宮崎に行く楽しみが,また一つ増えました!!
Posted by 日曜日 at
10:32
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2008年11月18日
宮崎を10分散歩しながら天文館について考えた
寒いですね〜〜
鹿児島って確かに気候が温暖な所ですが,秋がないというか,短すぎるというか,ちょっと損した気分です。
さて,先週金曜深夜〜土曜のお昼まで,宮崎に行ってまいりしました。ホテルで寝てた時間と仕事をしていた時間などなどを除くと,宮崎市内を歩いた時間はせいぜい10~20分。でも,大きな発見がこざいました。
**********
宮崎の中心街は鹿児島の天文館と違ってとても開放的な感じが致しました。
当たり前です。この開放感って,要するに通行人が少ない,走っている車が少ないということでもあるのですから。開放感と寂れた感じは紙一重ですから。
でも,宮崎のいい意味でノンビリした雰囲気って,人が少ないせいだけじゃない。
だってあの街の開放感は,中心街の建物が,そんなに低いわけでもないのに,空が広々と感じられることに由来するのだから!では,同じ高さの建物に囲まれていながら,どうして空を広々と感じることが出来るのか?
そうです!
宮崎は歩道が鹿児島よりも圧倒的に広いんです!こんな感じです。

だから,ふんだんに花や木々を街に,歩道スペースに取り込めます。写真からも分かるように歩いて疲れたら,花壇や街路樹の縁のところに坐って休むことも出来ます。
もしかすると,歩行者+自転車の通行スペースは天文館なんかより若干広いだけなのかもしれません。でも植物の植え込み部分,遊びのスペースが歩道に広々とした感じを与えてくれてます。
歩道が植物が植えてあるスペース分だけ広いので,街路樹も宮崎の方がずっと元気です。

人工のアーケードもいいけれど,街の真ん中の緑のアーケード,素敵じゃない?街の真ん中の緑のアーケードをお散歩,疲れたら木陰で一休みできる。街にいながら,自然,緑の恩恵を享する。人間として最高の贅沢かも〜〜
宮崎の山形屋に入っているスタバには,だからこの歩道に面するテラスもありました。こんな歩道のテラスなら確かにお茶したくなります。
この街路樹+植え込み用の<遊び>のスペースのために,歩道がゆったりしているので,路上に自転車や原チャリを停めても,通行人が困ることもありません。

いかに,宮崎の中心街のメインストリートに面した歩道が広いのか,これが何よりの証拠でございます。ちょっと見づらいですが(急いでいたので,カメラの露出を調整したり,フラッシュの設定を変える時間がなかったのさ〜)... 凄くない?

この立て看は,中心街よりも,かなり駅よりの場所に設置してあったのですが,少年たちが「いっちょスケボーでもすっか!」っていう気にさせるほどのスペースが歩道にあるって言うことです。
谷山,宇宿,下伊敷... 私が知っている市内の瀕死の商店街です。共通するのは,駐車スペースもだけれど,それ以上にゆったり歩ける歩道が整備されていないことです。これらの商店街は車への対策に目を奪われ,歩道を整備することをまったく考えなかった。
天文館も歩道は本当に貧弱ですよね。アミュやオプシアといった屋内を歩いている方が,天文館を歩くよりも開放感がある。しかもオプシアは駐車場代がタダ。勝負はついている。どちらが勝つかではなくて,いつ勝つか,まさしく時間の問題です。
天文館が生き残るには,10月22日のエントリーにも書きましたが,いかに遊歩空間として復活できるかにかかっていると思います。天文館への車の乗り入れを規制するなんて動きもあるようですが,スピードが... (行政サイドはお気楽サラリーマンだもんな〜〜,仕方ないか〜〜)... 経営者の方にも頑張ってもらいたいですが,高〜〜い住民税を払っている身としては,もう少し行政にも頑張ってもらいたいです。
..でも... 「鹿児島のような所で宮崎の真似が出来るかしら」だって?
簡単です。車道を一車線つぶせば済む話しです。でも,そうすると車の渋滞が... 世の中,全てを手に入れることなんて,なかなかできるものではありません。すべては<選択>の問題です。あなたとって,例えば高見馬場から電車通りを通って車で市役所に行くまでの所要時間が10分弱長くなるのと,その一帯の歩道が,もう少し通行人(特にお年寄り,子供,そして子供連れのお母さん・お父さん)に優しくなるのと,どちらがいいですか?
それだけのことです。そして私は断然後者を選ぶ。それだけのことです。
*********
以上のことは,ホテルから駅前のタクシー乗り場まで,たかだか10分の道のりの間に,つらつら考えたことでございます。
暇人の思いつき,暇つぶしに過ぎません。くれぐれも真に受けられることなどありませんよう!
戯れ言にお付き合い下さりありがとうございます。じゃあまた〜〜
皆様良き午後を。
鹿児島って確かに気候が温暖な所ですが,秋がないというか,短すぎるというか,ちょっと損した気分です。
さて,先週金曜深夜〜土曜のお昼まで,宮崎に行ってまいりしました。ホテルで寝てた時間と仕事をしていた時間などなどを除くと,宮崎市内を歩いた時間はせいぜい10~20分。でも,大きな発見がこざいました。
**********
宮崎の中心街は鹿児島の天文館と違ってとても開放的な感じが致しました。
当たり前です。この開放感って,要するに通行人が少ない,走っている車が少ないということでもあるのですから。開放感と寂れた感じは紙一重ですから。
でも,宮崎のいい意味でノンビリした雰囲気って,人が少ないせいだけじゃない。
だってあの街の開放感は,中心街の建物が,そんなに低いわけでもないのに,空が広々と感じられることに由来するのだから!では,同じ高さの建物に囲まれていながら,どうして空を広々と感じることが出来るのか?
そうです!
宮崎は歩道が鹿児島よりも圧倒的に広いんです!こんな感じです。

だから,ふんだんに花や木々を街に,歩道スペースに取り込めます。写真からも分かるように歩いて疲れたら,花壇や街路樹の縁のところに坐って休むことも出来ます。
もしかすると,歩行者+自転車の通行スペースは天文館なんかより若干広いだけなのかもしれません。でも植物の植え込み部分,遊びのスペースが歩道に広々とした感じを与えてくれてます。
歩道が植物が植えてあるスペース分だけ広いので,街路樹も宮崎の方がずっと元気です。

人工のアーケードもいいけれど,街の真ん中の緑のアーケード,素敵じゃない?街の真ん中の緑のアーケードをお散歩,疲れたら木陰で一休みできる。街にいながら,自然,緑の恩恵を享する。人間として最高の贅沢かも〜〜
宮崎の山形屋に入っているスタバには,だからこの歩道に面するテラスもありました。こんな歩道のテラスなら確かにお茶したくなります。
この街路樹+植え込み用の<遊び>のスペースのために,歩道がゆったりしているので,路上に自転車や原チャリを停めても,通行人が困ることもありません。

いかに,宮崎の中心街のメインストリートに面した歩道が広いのか,これが何よりの証拠でございます。ちょっと見づらいですが(急いでいたので,カメラの露出を調整したり,フラッシュの設定を変える時間がなかったのさ〜)... 凄くない?

この立て看は,中心街よりも,かなり駅よりの場所に設置してあったのですが,少年たちが「いっちょスケボーでもすっか!」っていう気にさせるほどのスペースが歩道にあるって言うことです。
谷山,宇宿,下伊敷... 私が知っている市内の瀕死の商店街です。共通するのは,駐車スペースもだけれど,それ以上にゆったり歩ける歩道が整備されていないことです。これらの商店街は車への対策に目を奪われ,歩道を整備することをまったく考えなかった。
天文館も歩道は本当に貧弱ですよね。アミュやオプシアといった屋内を歩いている方が,天文館を歩くよりも開放感がある。しかもオプシアは駐車場代がタダ。勝負はついている。どちらが勝つかではなくて,いつ勝つか,まさしく時間の問題です。
天文館が生き残るには,10月22日のエントリーにも書きましたが,いかに遊歩空間として復活できるかにかかっていると思います。天文館への車の乗り入れを規制するなんて動きもあるようですが,スピードが... (行政サイドはお気楽サラリーマンだもんな〜〜,仕方ないか〜〜)... 経営者の方にも頑張ってもらいたいですが,高〜〜い住民税を払っている身としては,もう少し行政にも頑張ってもらいたいです。
..でも... 「鹿児島のような所で宮崎の真似が出来るかしら」だって?
簡単です。車道を一車線つぶせば済む話しです。でも,そうすると車の渋滞が... 世の中,全てを手に入れることなんて,なかなかできるものではありません。すべては<選択>の問題です。あなたとって,例えば高見馬場から電車通りを通って車で市役所に行くまでの所要時間が10分弱長くなるのと,その一帯の歩道が,もう少し通行人(特にお年寄り,子供,そして子供連れのお母さん・お父さん)に優しくなるのと,どちらがいいですか?
それだけのことです。そして私は断然後者を選ぶ。それだけのことです。
*********
以上のことは,ホテルから駅前のタクシー乗り場まで,たかだか10分の道のりの間に,つらつら考えたことでございます。
暇人の思いつき,暇つぶしに過ぎません。くれぐれも真に受けられることなどありませんよう!
戯れ言にお付き合い下さりありがとうございます。じゃあまた〜〜
皆様良き午後を。
Posted by 日曜日 at
12:08
│Comments(4)
2008年11月17日
日本海を食す
お久しぶりになってしまいました...
お元気でいらっしゃいますか,みなさん。
週末は,金曜の夜最終で宮崎へ,徒歩で宮崎市中心部のホテルへ,翌日土曜は徒歩で駅前,タクシーで仕事,タクシーで駅へとんぼ返り,駅構内手早く昼食をすませ,晴天の宮崎から特急で雨の鹿児島へとんぼ返りという,本当に味気ない出張に行って参りました(ここまでシンプルというか,味気ない出張は数年前の弘前出張以来では)。
唯一よかった点と言えば,ゆっくりメイルが出来たこと+本が読めたことくらいでしょうか...
************
さてさて,金曜日は知人が山陰地方の出張に行ったついで,境港で生きのいい海産物を沢山持ち帰ってくれました。鹿児島に戻るや「食事においでよ〜」という誘いが来たので,出張疲れもなんのその,着替えもそこそこにご相伴にあずかってまいりました...
宮崎のお話は次回に回し,とりあえず,境港にはちょくちょく行けない皆様に成り代わり,日本海グルメの報告を致します...
当日,食卓に並んだものは...
白イカのさしみ(知人は大のイカ好き):これは白ワサビ+醤油でいただきます...
白いかのソテー:イカの香りバターの香りがなんとも言えません...
マツバガニのメス:頭の部分を頂きました(何匹分食べたかしら...)。北海道の毛ガニ(1ヶ月前の私と,ゆか殿のエントリーをご参照下さい)と違い,簡単に手でこじ開けられます。身は大してないのですが,濃厚な香りと味のカニミソがたっぷり!酔い痴れました。
ノドグロの甘醤油煮:知人の奥様,年に似合わず,本当に煮物がお上手で,この晩も堪能させていただきました。ノドグロというお魚,恥ずかしながら初めて頂きました。外観は金目鯛に似た魚で,味も似ていますが,ノドグロの方が身が引き締まっている上,味もしっかりしていました。美味かった〜〜。知人によれば,ノドグロは開きなら最近通販(ちょっとしたブームなのだそうです)などで,鹿児島でも簡単に手に入るものの,生で食するのは中々できないこととのこと。
〆は..カニを出汁に使ったみそ汁,具は白ネギで... 白みそとカニの風味が,上品にネギの甘さを引き出して,至福の一時でございました。
これらを,メドックの白で頂きました。とても上品というか,端正というか,どんな魚料理,いや和食全般に合いそうなもお味でございました。これが,ワイン通が口にする,ボルドー独特のアカデミックな味わいというやつなのでございましょうか(ワイン好きの連中の語彙には正直言って,ついて行けません!)。
*************
ア〜〜ア〜〜... 来月は誰かフランスにでも出張に行って...たらふくフォアグラをご馳走してくれないかな〜〜〜
お元気でいらっしゃいますか,みなさん。
週末は,金曜の夜最終で宮崎へ,徒歩で宮崎市中心部のホテルへ,翌日土曜は徒歩で駅前,タクシーで仕事,タクシーで駅へとんぼ返り,駅構内手早く昼食をすませ,晴天の宮崎から特急で雨の鹿児島へとんぼ返りという,本当に味気ない出張に行って参りました(ここまでシンプルというか,味気ない出張は数年前の弘前出張以来では)。
唯一よかった点と言えば,ゆっくりメイルが出来たこと+本が読めたことくらいでしょうか...
************
さてさて,金曜日は知人が山陰地方の出張に行ったついで,境港で生きのいい海産物を沢山持ち帰ってくれました。鹿児島に戻るや「食事においでよ〜」という誘いが来たので,出張疲れもなんのその,着替えもそこそこにご相伴にあずかってまいりました...
宮崎のお話は次回に回し,とりあえず,境港にはちょくちょく行けない皆様に成り代わり,日本海グルメの報告を致します...
当日,食卓に並んだものは...
白イカのさしみ(知人は大のイカ好き):これは白ワサビ+醤油でいただきます...
白いかのソテー:イカの香りバターの香りがなんとも言えません...
マツバガニのメス:頭の部分を頂きました(何匹分食べたかしら...)。北海道の毛ガニ(1ヶ月前の私と,ゆか殿のエントリーをご参照下さい)と違い,簡単に手でこじ開けられます。身は大してないのですが,濃厚な香りと味のカニミソがたっぷり!酔い痴れました。
ノドグロの甘醤油煮:知人の奥様,年に似合わず,本当に煮物がお上手で,この晩も堪能させていただきました。ノドグロというお魚,恥ずかしながら初めて頂きました。外観は金目鯛に似た魚で,味も似ていますが,ノドグロの方が身が引き締まっている上,味もしっかりしていました。美味かった〜〜。知人によれば,ノドグロは開きなら最近通販(ちょっとしたブームなのだそうです)などで,鹿児島でも簡単に手に入るものの,生で食するのは中々できないこととのこと。
〆は..カニを出汁に使ったみそ汁,具は白ネギで... 白みそとカニの風味が,上品にネギの甘さを引き出して,至福の一時でございました。
これらを,メドックの白で頂きました。とても上品というか,端正というか,どんな魚料理,いや和食全般に合いそうなもお味でございました。これが,ワイン通が口にする,ボルドー独特のアカデミックな味わいというやつなのでございましょうか(ワイン好きの連中の語彙には正直言って,ついて行けません!)。
*************
ア〜〜ア〜〜... 来月は誰かフランスにでも出張に行って...たらふくフォアグラをご馳走してくれないかな〜〜〜
Posted by 日曜日 at
10:40
│Comments(2)
2008年11月14日
月面散歩(最終回):携帯見つかりました

皆様お騒がせ致しましたが,ようやく戻って参りました。
市バスの落とし物係には... じつは年に一回はお世話になってまして(回収率なんと100%)...
今年は,お世話にならないですむかしら!?と思った矢先の出来事でした。
幼少の頃,電車や蒸気機関車の操車場で巨大な機械をみるのが大好きだった私めとしては,嫌いじゃありません(っていうかかなり好き),交通局。
しかも老朽化の極みともいえる,建物,内装,照明器具の配置,配線のレイアウト,床,壁のゆがみ具合,<全てが昭和>で,交通局の落とし物係に行くと,身も心も癒されます。ぜったいにあの雰囲気は残してもらいたいな〜〜
話がそれましたが...
携帯なんて,なければないで何とかなるのですが,今日は残業+近場ながら県外出張なので,やっぱあった方が便利かな〜〜
皆様ご心配下さりありがとうございます。
因に写真は今年2月のものです。ティッシュは洟をかんだ(慢性の鼻炎なもので)ものです,へんな想像しないでくださいね(しないか普通)。しかし汚いですね...
Posted by 日曜日 at
12:13
│Comments(2)
2008年11月13日
月面散歩3:携帯を探す朝...

昨日の朝... 高見馬場にて...
携帯を探してじ〜〜っと地面を見つめた後に,ふとをそれを見上げると...
その時の写真でございます。
今日と同様,とてもいい天気でございました...
このとぼけた写真から,私のやるせなさが少しでも伝われば...
************
さて...今日はもう職場を離れることができるので,携帯を取りに行って参ります。
皆様よき午後を...
Posted by 日曜日 at
15:55
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2008年11月12日
月面散歩2:携帯が見つかった!?
とある国では...「ボ〜〜ッとしてる」ことを「月にいる」と申します。
*************
携帯...,似た機種がバス会社に保管してあるそうな...
今日中に取りに行けるかしら...
まだ,これから一仕事...
トホホ...
*************
携帯...,似た機種がバス会社に保管してあるそうな...
今日中に取りに行けるかしら...
まだ,これから一仕事...
トホホ...
Posted by 日曜日 at
17:52
│Comments(4)
2008年11月12日
月面散歩:1
とある国では...「ボ〜〜ッとしてる」ことを「月にいる」と申します。
至って平凡なおやじサラリーマン生活をしているつもりなのですが...
一昨日,帰宅後,鍵を家のどこかにおいて... 行方不明。拙宅内紛失なので,警察に紛失届も出せません...
昨日,高見馬場でバスを降りて以来,携帯が見当たりません... バスの中?通りに落とした?
すぐに携帯のコールセンターで通信をとめては貰いましたが...
立て続けに大事なものを落としたから...今日は美味しい拾い物(もちろん警察に届けますよ!)でもしないかしら〜〜
********
ふんじゃ,行ってきます。
皆様よき一日を!
至って平凡なおやじサラリーマン生活をしているつもりなのですが...
一昨日,帰宅後,鍵を家のどこかにおいて... 行方不明。拙宅内紛失なので,警察に紛失届も出せません...
昨日,高見馬場でバスを降りて以来,携帯が見当たりません... バスの中?通りに落とした?
すぐに携帯のコールセンターで通信をとめては貰いましたが...
立て続けに大事なものを落としたから...今日は美味しい拾い物(もちろん警察に届けますよ!)でもしないかしら〜〜
********
ふんじゃ,行ってきます。
皆様よき一日を!
Posted by 日曜日 at
08:52
│Comments(4)
2008年11月11日
教育やいじめについてちょっとだけまじめに考えてみた...
昨日,とあるきっかけからいじめについて考えはじめました...
ゆっくりしたいのだけれど,一度何かを考え出すと,文章にして吐き出さないと落ち着かない質なので,とりあえず文章にしてみます。
長い文章なので,時間のない方はパスして下さい。時間の無駄です。
****************
まず,いじめというか,教育問題で厄介なのが,誰もが教育を受けた経験があるし,子供だった経験があったり,子育て中だったりすることだと思う。
だから誰もが,自分は教育問題や子供の問題について,言うべきことがあると思いがち。
しかも,教育においては誰もが<勝ち組>になるわけではない。大抵は負け組である(私はずっと<負け組です>とほほ....)。
だから教育に対する怨念とか,後悔の念を抱いていたりしながら,教育問題,子供問題を眺めがちだ。
一番多くて,結構厄介なのが,「今の子供は昔と比べて... 」という台詞(...には「子供だ」「幼い」「ひ弱だ」「わがままだ」「恵まれている」「忙しい」「目が死んでいる」等々,好きな言葉をいれておくんなさい)や,「昔は...」という台詞(...には「よかった」「地域がしっかりしていた」「近所の人がどこの家の子にも分け隔てなく声をかけてくれた」等々,ここも好みの言葉を入れてくらはい)。
これは不毛な議論の典型だと思う。だって昔とは社会の産業構造も違えば,学歴の価値も違う,価値観も違うし,「平均」の基準も,意味も違う。いわば社会そのものが違う。社会の枠組みが違うのだから,そこで暮らす人々の考え,行動,行動基準は違って当たり前。
つまり,昔と比べたって仕方ない。それに今を計る基準の<昔>そのものが大抵は美化されている。今の子供を出汁に自分の幼かったころ,若かった頃をいたずらに自慢するのは止めましょう。それって自分が年寄りであること,現代社会から取り残されていることを,白状しているのと一緒ですから... 要するに,今の子供に昔の子供のようになれ,振る舞えと要求するのは,彼らが持っている環境適応能力を発揮するなと言っているのに等しい。
だから,「今の子供は昔と比べて... 」というおじさん,おばさんにはまず革命でも,クーデタでも起こしてもらって,今の日本を昔にもどしてもらってから,発言してもらうことにしましょう。できなければ,とりあえずは黙るべし!
*************
さて,いじめの問題だけれど,「まず大人がまず変わらねば」「社会を変えねば」「受験競争をどうにかせねば」という立派なお話をよく耳にする。
でも,冷静に考えてみよう。戦後一貫して,まともに政権一つキチンと変えることができない私たち大人に,「まず大人がまず変わらねば」「社会を変えねば」というスローガンは少々荷が重すぎる。
我々自身が変革能力をほとんど持ち合わせていない無能で自堕落な大人なのである。そのくせ,子供にいたずらに「周りに優しく」「子供同士で助け合え」「いじめをするな」と期待するのは,子供へ過度な期待をしていることに他ならない。我々のような駄目な大人が産み,育てている子供だ。連中に過度な期待をするのはよそう。
だから,もう少し具体的で,物理的で,ミクロな方法を考えてみよう。とりあえず<心>の問題(見えないし,<心>が何か分かるまでに大抵の人は帰らぬ人になってしまう)は括弧に入れましょう。熱いおじさん,おばさん諸兄諸姉派は冷静になるべし。
まず極論からスタートしよう。つまり,具体的には,子供たちだけが長い集まっていれば,ろくなことはしでかさない,と考えることからスタートしたい。駄目な大人が産んだ子供だ。酷い連中に決まっている。連中に互いの人間関係をうまくマネージメントできるはずがない。
だから,まず学校では子供たちが子供たち同士でいる時間・場所を極力少なくすることが大事だと思う。大人がいるところでは,子供だけの場所よりもいじめが起こる蓋然性は低いだろう。ともかく学校では大人の目をよりきめ細かく子供に向けるべきだ。これはさまざまな学力,社会的出自の異なる子供たちが学ぶ公立の小中学校では特に大事なことだと思う。
日本の学校では,休憩時間,遊び時間,給食,掃除,更衣...等々,子供同士だけで過ごす時間が結構長い。場所も多様である。特に日本では行政が校区をきめ細かく分けて,小さな学校をたくさん建てることを,組織的に避けてきた。気にしない人が多いけれど,日本の地方行政はかなり怠慢だ。特に教育の面では顕著だ(子供が相手だし,保護者も子供を人質に取られてこれまでは比較的おとなしかった)。賢い公務員は手の抜きどころが分かっているということなんでしょう。
そのせいで,一つ一つの学校の規模がやたら大きく,1クラス当たりの生徒数も多い。だから理不尽なことだが,逆に学校ほど大人の目が子供たちに届かない時間が長く,場所も多い空間はないのではないだろうか!そんじょそこらの公園には遊んでいる子供を見守る大人が大抵一人はいる。だが,昼休み,広〜い校庭,校舎にを何名の教員が目を光らせているだろうか?栃木の中学生窒息事件も,公園の砂場ではなく,小学校が舞台ではありませんでしたか?
だから,まず1クラスあたりの児童生徒数をへらすことからスタートしたい。これは具体的には,より沢山の学校建設,より多くの教員採用,つまりはより多くの税金の投入を意味する。
さらに教員の目の届かない所には,いわば監視人(厳めしい名前だけれど,ネーミングは皆さんにお任せします)を置くしかあるまい。監視人なんて極論すれば誰だっていい。そして彼らが子供たちの行動をいわば監視,追跡する。
先生以外にも,何か悪いことをすればすぐに雷を落とす怖いおじさん,おばさん,兄ちゃん,姉ちゃんがいる,逆に言えば,何か問題があったり,誰かからいじめられたりしたら,話を聞いてくれる頼れるおじさん,兄ちゃん,優しいおばさん,姉ちゃんがいる空間,そんな風に学校を子供たちに認識させることが大事だ。
こどもに絶えず緊張感,信頼感を与えるには,監視人はいつも同じ顔ぶれであることが望ましい。ボランティアでは到底無理な話だ。監視人は,学校を陰で支えるプロなのだ。最低限の訓練も必要だろう。それには金がかかる。さらに,養成後は,監視人というプロの仕事には,それなりの報酬を払う必要が発生する。
************
一方で,学校外では,子供たちが,学校以外の人間関係,可能性を開拓し,はじけることができる時間,空間を作ってやることが大事だ。そこで行われる活動は,釣りだろうが,岩登りだろうが,演劇だろうがスポーツだろうが,芸術だろうが,クラシック音楽だって,ヨガ,将棋,生物,天体観測,数学,文芸だろうが,何でもいい。
肝要なのは子供たちに,学校が彼らの生活,交友関係,可能性の全てではないことを理解させ,肌で感じさせることだ。
つまり学校とは違う,価値観,社会性,可能性,もっと言えば,学校でとはちがう自分を発見,構築する場と時間を子供たちに与えるようにすることだ。
主導権を握るのは県だろうが,市だろうが,地域だろうがなんでもかまわない。ただ,大事なことは,可能なかぎり,子供たちが学校以外の交友関係,社会性を育めるようにすることだ。この視点からすれば,鹿児島のように校区ごとに行事の多い土地柄を持つ所では,活動の単位を校区で区切らないほうがのはよいのかもしれない。
学校とは違う社会性を培う場,学校では見つけられない自分の可能性,趣味を開拓,発見する場なので,これらの活動の指導は教員以外がするのがいい。もちろん,その分野では責任ある指導ができる人に任せるべき。無論,場所,人の確保にはかなりの出費を覚悟する必要がある。
************
上に述べたことは矛盾しているように見える。
一方で子供をまったく信頼してないが,一方では子供たちが新たな社会性,あらたな可能性を発見する可能性に信を置いた方策なのだから。
だが,こうした矛盾を敢えてはらんだアプローチが今の子供(ある程度の豊かさの中に生きる子供たち)には必要なのだと思う。
そして,上に述べたことを実施するには,かなりの予算が必要だ。
これまで私たちは,やすい給料で公立学校の教員を雇って,彼らに教育のすべてを押し付けてきた。
だが,そもそも教員は勉強を教えるプロではあっても,それ以外の分野の仕事のプロではない。私たちは教員に学科教育以外の分野でもプロになれと言っているが,それは無理なのではなかろうか。
そもそも一人の人間に複数の分野でプロになれなんて要求するのは,教育の世界だけではないか?あなたはイチロー君に打者として一流であると同時に,ピッチャーとしてそこそもの成績を残すことを望みますか?天才イチローにさえ要求しないことを,なぜ私たちは,私たちとさして能力の変わらない教員に要求するのか?
これまで私たちは教育という多様な領域をカバーする社会的作業を,学校と教員だけに押し付けてきた。だが本当にいじめが大きく後退することを望むなら,この国の教育が改善されることを望むなら,もっと学校と教員が本来は担当すべきでない領域へのかなりの出費を覚悟するべきだと思う。そんなのイヤだ。俺は自分の可愛い太郎,花子の教育に金をかけても,それを税金という形で払うのはイヤだという人もおおいのではないか(その結果が今の日本の教育の現状だ!)。
今 大人たちに問われているのは,どこまで本気になれるかということだ。「まず大人が変わらねば」「社会を変えねば」「受験競争をどうにかせねば」「政治が悪い」みたいな,雲を摑むような抽象的なスローガンを繰り返すのは,とても簡単だ。誰でもできる。私にだってできる。これだとお金も知恵もいらないからね。
ではなく,本当に何かを変えたければ,教育に人とお金と設備と時間をどれだけかけられるかということだ。
具体性を欠く美辞麗句をこれ以上繰り替えすのは止しませんか?
あなたはここまでして,いじめを後退させたいですか?ここまで教育に本気なれますか?
だから,私は子供を作らない人の気持ちもわからないではありません。
ゆっくりしたいのだけれど,一度何かを考え出すと,文章にして吐き出さないと落ち着かない質なので,とりあえず文章にしてみます。
長い文章なので,時間のない方はパスして下さい。時間の無駄です。
****************
まず,いじめというか,教育問題で厄介なのが,誰もが教育を受けた経験があるし,子供だった経験があったり,子育て中だったりすることだと思う。
だから誰もが,自分は教育問題や子供の問題について,言うべきことがあると思いがち。
しかも,教育においては誰もが<勝ち組>になるわけではない。大抵は負け組である(私はずっと<負け組です>とほほ....)。
だから教育に対する怨念とか,後悔の念を抱いていたりしながら,教育問題,子供問題を眺めがちだ。
一番多くて,結構厄介なのが,「今の子供は昔と比べて... 」という台詞(...には「子供だ」「幼い」「ひ弱だ」「わがままだ」「恵まれている」「忙しい」「目が死んでいる」等々,好きな言葉をいれておくんなさい)や,「昔は...」という台詞(...には「よかった」「地域がしっかりしていた」「近所の人がどこの家の子にも分け隔てなく声をかけてくれた」等々,ここも好みの言葉を入れてくらはい)。
これは不毛な議論の典型だと思う。だって昔とは社会の産業構造も違えば,学歴の価値も違う,価値観も違うし,「平均」の基準も,意味も違う。いわば社会そのものが違う。社会の枠組みが違うのだから,そこで暮らす人々の考え,行動,行動基準は違って当たり前。
つまり,昔と比べたって仕方ない。それに今を計る基準の<昔>そのものが大抵は美化されている。今の子供を出汁に自分の幼かったころ,若かった頃をいたずらに自慢するのは止めましょう。それって自分が年寄りであること,現代社会から取り残されていることを,白状しているのと一緒ですから... 要するに,今の子供に昔の子供のようになれ,振る舞えと要求するのは,彼らが持っている環境適応能力を発揮するなと言っているのに等しい。
だから,「今の子供は昔と比べて... 」というおじさん,おばさんにはまず革命でも,クーデタでも起こしてもらって,今の日本を昔にもどしてもらってから,発言してもらうことにしましょう。できなければ,とりあえずは黙るべし!
*************
さて,いじめの問題だけれど,「まず大人がまず変わらねば」「社会を変えねば」「受験競争をどうにかせねば」という立派なお話をよく耳にする。
でも,冷静に考えてみよう。戦後一貫して,まともに政権一つキチンと変えることができない私たち大人に,「まず大人がまず変わらねば」「社会を変えねば」というスローガンは少々荷が重すぎる。
我々自身が変革能力をほとんど持ち合わせていない無能で自堕落な大人なのである。そのくせ,子供にいたずらに「周りに優しく」「子供同士で助け合え」「いじめをするな」と期待するのは,子供へ過度な期待をしていることに他ならない。我々のような駄目な大人が産み,育てている子供だ。連中に過度な期待をするのはよそう。
だから,もう少し具体的で,物理的で,ミクロな方法を考えてみよう。とりあえず<心>の問題(見えないし,<心>が何か分かるまでに大抵の人は帰らぬ人になってしまう)は括弧に入れましょう。熱いおじさん,おばさん諸兄諸姉派は冷静になるべし。
まず極論からスタートしよう。つまり,具体的には,子供たちだけが長い集まっていれば,ろくなことはしでかさない,と考えることからスタートしたい。駄目な大人が産んだ子供だ。酷い連中に決まっている。連中に互いの人間関係をうまくマネージメントできるはずがない。
だから,まず学校では子供たちが子供たち同士でいる時間・場所を極力少なくすることが大事だと思う。大人がいるところでは,子供だけの場所よりもいじめが起こる蓋然性は低いだろう。ともかく学校では大人の目をよりきめ細かく子供に向けるべきだ。これはさまざまな学力,社会的出自の異なる子供たちが学ぶ公立の小中学校では特に大事なことだと思う。
日本の学校では,休憩時間,遊び時間,給食,掃除,更衣...等々,子供同士だけで過ごす時間が結構長い。場所も多様である。特に日本では行政が校区をきめ細かく分けて,小さな学校をたくさん建てることを,組織的に避けてきた。気にしない人が多いけれど,日本の地方行政はかなり怠慢だ。特に教育の面では顕著だ(子供が相手だし,保護者も子供を人質に取られてこれまでは比較的おとなしかった)。賢い公務員は手の抜きどころが分かっているということなんでしょう。
そのせいで,一つ一つの学校の規模がやたら大きく,1クラス当たりの生徒数も多い。だから理不尽なことだが,逆に学校ほど大人の目が子供たちに届かない時間が長く,場所も多い空間はないのではないだろうか!そんじょそこらの公園には遊んでいる子供を見守る大人が大抵一人はいる。だが,昼休み,広〜い校庭,校舎にを何名の教員が目を光らせているだろうか?栃木の中学生窒息事件も,公園の砂場ではなく,小学校が舞台ではありませんでしたか?
だから,まず1クラスあたりの児童生徒数をへらすことからスタートしたい。これは具体的には,より沢山の学校建設,より多くの教員採用,つまりはより多くの税金の投入を意味する。
さらに教員の目の届かない所には,いわば監視人(厳めしい名前だけれど,ネーミングは皆さんにお任せします)を置くしかあるまい。監視人なんて極論すれば誰だっていい。そして彼らが子供たちの行動をいわば監視,追跡する。
先生以外にも,何か悪いことをすればすぐに雷を落とす怖いおじさん,おばさん,兄ちゃん,姉ちゃんがいる,逆に言えば,何か問題があったり,誰かからいじめられたりしたら,話を聞いてくれる頼れるおじさん,兄ちゃん,優しいおばさん,姉ちゃんがいる空間,そんな風に学校を子供たちに認識させることが大事だ。
こどもに絶えず緊張感,信頼感を与えるには,監視人はいつも同じ顔ぶれであることが望ましい。ボランティアでは到底無理な話だ。監視人は,学校を陰で支えるプロなのだ。最低限の訓練も必要だろう。それには金がかかる。さらに,養成後は,監視人というプロの仕事には,それなりの報酬を払う必要が発生する。
************
一方で,学校外では,子供たちが,学校以外の人間関係,可能性を開拓し,はじけることができる時間,空間を作ってやることが大事だ。そこで行われる活動は,釣りだろうが,岩登りだろうが,演劇だろうがスポーツだろうが,芸術だろうが,クラシック音楽だって,ヨガ,将棋,生物,天体観測,数学,文芸だろうが,何でもいい。
肝要なのは子供たちに,学校が彼らの生活,交友関係,可能性の全てではないことを理解させ,肌で感じさせることだ。
つまり学校とは違う,価値観,社会性,可能性,もっと言えば,学校でとはちがう自分を発見,構築する場と時間を子供たちに与えるようにすることだ。
主導権を握るのは県だろうが,市だろうが,地域だろうがなんでもかまわない。ただ,大事なことは,可能なかぎり,子供たちが学校以外の交友関係,社会性を育めるようにすることだ。この視点からすれば,鹿児島のように校区ごとに行事の多い土地柄を持つ所では,活動の単位を校区で区切らないほうがのはよいのかもしれない。
学校とは違う社会性を培う場,学校では見つけられない自分の可能性,趣味を開拓,発見する場なので,これらの活動の指導は教員以外がするのがいい。もちろん,その分野では責任ある指導ができる人に任せるべき。無論,場所,人の確保にはかなりの出費を覚悟する必要がある。
************
上に述べたことは矛盾しているように見える。
一方で子供をまったく信頼してないが,一方では子供たちが新たな社会性,あらたな可能性を発見する可能性に信を置いた方策なのだから。
だが,こうした矛盾を敢えてはらんだアプローチが今の子供(ある程度の豊かさの中に生きる子供たち)には必要なのだと思う。
そして,上に述べたことを実施するには,かなりの予算が必要だ。
これまで私たちは,やすい給料で公立学校の教員を雇って,彼らに教育のすべてを押し付けてきた。
だが,そもそも教員は勉強を教えるプロではあっても,それ以外の分野の仕事のプロではない。私たちは教員に学科教育以外の分野でもプロになれと言っているが,それは無理なのではなかろうか。
そもそも一人の人間に複数の分野でプロになれなんて要求するのは,教育の世界だけではないか?あなたはイチロー君に打者として一流であると同時に,ピッチャーとしてそこそもの成績を残すことを望みますか?天才イチローにさえ要求しないことを,なぜ私たちは,私たちとさして能力の変わらない教員に要求するのか?
これまで私たちは教育という多様な領域をカバーする社会的作業を,学校と教員だけに押し付けてきた。だが本当にいじめが大きく後退することを望むなら,この国の教育が改善されることを望むなら,もっと学校と教員が本来は担当すべきでない領域へのかなりの出費を覚悟するべきだと思う。そんなのイヤだ。俺は自分の可愛い太郎,花子の教育に金をかけても,それを税金という形で払うのはイヤだという人もおおいのではないか(その結果が今の日本の教育の現状だ!)。
今 大人たちに問われているのは,どこまで本気になれるかということだ。「まず大人が変わらねば」「社会を変えねば」「受験競争をどうにかせねば」「政治が悪い」みたいな,雲を摑むような抽象的なスローガンを繰り返すのは,とても簡単だ。誰でもできる。私にだってできる。これだとお金も知恵もいらないからね。
ではなく,本当に何かを変えたければ,教育に人とお金と設備と時間をどれだけかけられるかということだ。
具体性を欠く美辞麗句をこれ以上繰り替えすのは止しませんか?
あなたはここまでして,いじめを後退させたいですか?ここまで教育に本気なれますか?
だから,私は子供を作らない人の気持ちもわからないではありません。
Posted by 日曜日 at
13:17
│Comments(4)
2008年11月10日
西武野球復活
いや〜〜久々にテレビでいいもの観ました。野球ネタです。興味のない人は読んでも何のことかさっぱり分からないと思います。くれぐれも続きは読まないように!
************
昨日の日本シリーズですが,途中からしか見てないのですがいいもの見させてもらいました。
8回表の攻撃です。
昔の西武野球を彷彿とさせて,鳥肌が立ちました。
どんなことかというと...
まずは片岡選手が2球目でデッド・ボールで出塁。しかも彼はガッツ・ポーズ!デッド・ボールでガッツ・ポーズですからね,彼の闘志で球場の雰囲気が変わりました(このガッツ・ポーズをコメントしながら笑っていた解説の堀内... やはり鈍さというか,状況判断が正確にできるような常識を備えていては大投手にはなれないのでしょう)。
初球をすかさずスチール!見事成功。この勇気というか気合い,自分を信じることが出来る人間にだけできるプレーです。ぜひソフト・バンクの本多君にも見習ってもらいたい。
さて栗山は2球目,すなわちファースト・ストライクを確実にバント。ここも緊張の中、一発で決めるところが凄い。勢いがつくもの。
そして,3番の中島を初球をヒッティング。ボテボテのサードゴロ。結果はともかく,ストライクは初球から行くという積極性を買いたいです。
もちろん、ここでランナーは勝負!
片岡選手はホーム突入を試みます。
中途半端な守備体系をひいていた巨人の内野陣をしっかり片岡選手は見ていたのでしょうが,それでもゴロだと,ベンチと選手の信頼がないと,突っ込めないと思います。
結果中途半端な守備体系の巨人の内野陣は,片岡選手をホームで刺せずに,同点に追いつかれます。
わずか5球,しかもノーヒットで虎の子の1点をもぎ取った西武。しかも,すべてが<初球>で決められていること。<ここぞ>と言う時の選手の,集中力,能力の高さ,そして何よりも<勇気>には,心から敬意を表したいです。西武野球には,西武ファンでなくても,敬意を表さずにはいられなくなる何かがある(因に私はソフト・バンクのファンです)!
それが本当によ〜〜く表れた数分間でした。
***************
まさしく選手とベンチが一体となんて貴重な一点をもぎ取った西武。
この時点は,私としては日本シリーズは終った感じです。
この数分間の出来事を,今年の野球シーズンの終わりに見られただけで,野球ファンではないにしろ,この1年間定期的に野球を観てよかったなと,つくづく思いました。
***********
素晴らしき哉,西武野球。
あの西武と,シーズン中はほぼ互角の戦いをした,ソフト・バンク,どうか来年は頑張ってください(ことしも頑張った末の最下位だとは思うのですが...)。
************
昨日の日本シリーズですが,途中からしか見てないのですがいいもの見させてもらいました。
8回表の攻撃です。
昔の西武野球を彷彿とさせて,鳥肌が立ちました。
どんなことかというと...
まずは片岡選手が2球目でデッド・ボールで出塁。しかも彼はガッツ・ポーズ!デッド・ボールでガッツ・ポーズですからね,彼の闘志で球場の雰囲気が変わりました(このガッツ・ポーズをコメントしながら笑っていた解説の堀内... やはり鈍さというか,状況判断が正確にできるような常識を備えていては大投手にはなれないのでしょう)。
初球をすかさずスチール!見事成功。この勇気というか気合い,自分を信じることが出来る人間にだけできるプレーです。ぜひソフト・バンクの本多君にも見習ってもらいたい。
さて栗山は2球目,すなわちファースト・ストライクを確実にバント。ここも緊張の中、一発で決めるところが凄い。勢いがつくもの。
そして,3番の中島を初球をヒッティング。ボテボテのサードゴロ。結果はともかく,ストライクは初球から行くという積極性を買いたいです。
もちろん、ここでランナーは勝負!
片岡選手はホーム突入を試みます。
中途半端な守備体系をひいていた巨人の内野陣をしっかり片岡選手は見ていたのでしょうが,それでもゴロだと,ベンチと選手の信頼がないと,突っ込めないと思います。
結果中途半端な守備体系の巨人の内野陣は,片岡選手をホームで刺せずに,同点に追いつかれます。
わずか5球,しかもノーヒットで虎の子の1点をもぎ取った西武。しかも,すべてが<初球>で決められていること。<ここぞ>と言う時の選手の,集中力,能力の高さ,そして何よりも<勇気>には,心から敬意を表したいです。西武野球には,西武ファンでなくても,敬意を表さずにはいられなくなる何かがある(因に私はソフト・バンクのファンです)!
それが本当によ〜〜く表れた数分間でした。
***************
まさしく選手とベンチが一体となんて貴重な一点をもぎ取った西武。
この時点は,私としては日本シリーズは終った感じです。
この数分間の出来事を,今年の野球シーズンの終わりに見られただけで,野球ファンではないにしろ,この1年間定期的に野球を観てよかったなと,つくづく思いました。
***********
素晴らしき哉,西武野球。
あの西武と,シーズン中はほぼ互角の戦いをした,ソフト・バンク,どうか来年は頑張ってください(ことしも頑張った末の最下位だとは思うのですが...)。
Posted by 日曜日 at
17:13
│Comments(0)
2008年11月09日
奄美の秋フォトギャラリー(5)

瀬戸内町から名瀬に向かう時に,夕暮れのビューポイントから撮った風景。
う〜〜ん,堪らん。できることなら,田舎の中都市のイヤな所ばかりが凝縮した鹿児島なんかじゃなくて,こんな風に,山と海と空と緑が奏でる,奇跡的な和音に身を委ねながら暮らしてみたい! 続きを読む
Posted by 日曜日 at
11:23
│Comments(2)
2008年11月08日
奄美の秋フォトギャラリー(4)

一仕事終えた後,夕暮れ時のビーチにて(南部)。
ほんのひと時の散策でしたが,癒されました。本当に。すべてをなげうって,ミカン箱数箱の本とCDだけ残して,すべてを投げ捨てて移住したくなります。
Posted by 日曜日 at
17:36
│Comments(9)
2008年11月08日
奄美の秋フォトギャラリー(3)

フォトギャラリーというには大げさですが,こんな感じでした...
凄くない?南国鹿児島の方にとっては当たり前かしら?
本州,裏日本,北国を渡り歩いてきた私としては,かなりインパクトがありました。
Posted by 日曜日 at
11:48
│Comments(4)
2008年11月07日
奄美の秋フォトギャラリー(2)

マングローブの原生林。
数年前,初めて奄美を訪れた時に「今度訪れたときは必ず見てみたい」と思っていた風景。やっぱり種子島のとはスケールがちょっと違いますね(種子島も大好きですが...)。
仕事がなければ,カヌーにも乗ったのに...
Posted by 日曜日 at
21:31
│Comments(2)
2008年11月07日
奄美の秋フォトギャラリー(1)

他愛もない柿の木ですが... BGMはなんと!蝉の大合唱。なんでもタイワンクマゼミというセミだそうです。蝉時雨を聞きながらの真っ赤な柿,風流というか,シュールというか...
ちなみにバックの藁葺きの民家は,西郷が奄美に流されていたときの住居だそうです。かつて訪れた,吉田松陰や森林太郎(鴎外)の生家よりかなりゴージャスに見えます...(比較しても仕方ないが...)
Posted by 日曜日 at
12:55
│Comments(6)
2008年11月06日
キャンバスに野獣が解き放たれた時
先日,3日は,ヴラマンク展の最終日。
仕事が終わるや,車で駆けつけました。このエントリーはその時の感想です。美術に関心のない方,読まない方がいいですよ。退屈されるのが関の山ですから。
美術に造詣の深い方も読まないで下さいね。所詮素人のつぶやきです。読むだけ時間の無駄でございます。
********
ヴラマンクといえば,とある詩人の影響でキュービスムとの関連で捉えていたけれど,確かに展覧会の全体のから受けた印象はフォーヴィスムの画家,ヴラマンクだった。
ただ,見ていて<即座に虜になる>という画家ではない。マチスとは違う。無条件に人を虜にする(というか無関心のままにはさせておかない)明るい色使いや,躍動的なタッチではない。
でも,明らかにヴラマンクの絵,色,筆使いはフォーヴ=野獣だ。
どうして?なぜならそこにはある種の<解放感>がある。
一世代前の画家たち,つまり後期印象派や,セザンヌ,あるいはゴッホにさえない解放感がある。
おそらく,それは,ヴラマンクなどごくわずかの画家たちが立ち会えた,歴史的な解放感なのだと思う。恐らくヴラマンクを見ていて楽しいのは,その歴史的な開放感を,我々も彼の絵を見ていて共有できる(追体験)からなのだろう。
それは端的に行ってしまえば,ミメシス,つまり現実描写,模倣の掟の重圧からの解放だ。
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長い間,と言うよりも。絵というものがこの世に生まれて以来,つまりラスコーやアルタミラの壁画から19世紀後半〜20世紀初頭までの20,000年以上もの間,どんなに稚拙な絵,寓意的な絵であろうと,絵は目に見える外界の現実とのつながりを,完全に解消することが許されることは一度としてなかった。どのように崇高であろうと,どれほど幼稚であろうと,絵画はいつも,どこかで外界の現実,つまり歴史,意味,寓意などに奉仕することを義務づけられていた。つまり,どんなに神々しい(ジャンルにおいて,完成度において)絵でも,現実に仕える奴隷という側面がつきまとっていた。
なぜなら,そのようにしか我々は絵を見ることができなかったから。見たものをイメージとして伝える方法として,私たちには絵しかなかった。だから絵を見るときも,外界との関係を完全に無視することが出来なかった(卵が先か,鶏が先かみたいな話になってしまったけれど...)。外界,現実との距離で芸術の位付けがなされてきた西洋では,だから絵画はどうしても下の位に押しやられてしまう。絵画は,詩や音楽や,もちろん哲学よりも下に見られてしまう。画家は芸術家ではない,職人,絵描きさんでしかなかった。
ところがである!
19世紀,20世紀に,現実を描写するという賎しい仕事を引き受けてくれる,あたらしいジャンルが出現した。
もちろん写真と映画のことだ。
最初に写真家になったのは,当時の絵描きにさえなることができない,絵描きくずれの連中だった。また,映画が発明されるや,映画は世界中の奇妙な民族,風物,風俗を撮影すべく,世界中を旅した(発明当初,映画は日常を描写する道具としてか認知されておらず,物語を語るメディアになるとは誰も予想していなかった)。
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現実描写という賎しい仕事を写真と映画が引き受けてくれた(だって,すでに3次元にあるものを2次元に写し取ることが,創造的あでるはずがない)おかげで,絵画は歴史的役割を終え消え去るどころか,これまで音楽や詩だけに与えられてきた<高貴な役割>を得ることになる。
それを,真実と呼ぼうが,芸術家の内面と呼ぼうが,精神と呼ぼうが,絵画性そのものと呼ぼうが,名前などはどうでもいい。
歴史上初めて,赤は赤として,黒は黒として,つまり色は色として,そして線は線としてキャンバスの上を自由に駆け巡り,その存在の正当性を直接的に(つまり退屈な現実を経由することなく)主張できるようになったのだ。そして,絵画自体が<絵画と何か>と自らに問いかける自由,高貴な自意識を得たのだ。
ヴラマンクの絵にはそのような,歴史的自由が,絵画がようやく勝ち取った自由,高貴さ故の幸福感で満ちあふれている。
そう,フォーヴとは,今述べてきたような,現実への従属,現実描写という賤しい機能から解き放たれた,色,線,絵画そのものにほかならない。
写真や映画によって,絵は歴史や風景や光を描く正当性を奪われて,狭〜いキャンバスに閉じ込められたように見える。ところが実際は逆。写真に汚れた外界を押し付けることで,絵はキャンバスという広大な自由を得た。絵はキャンバスに解き放たれ,野獣として自由に走り,跳び,踊り,吠える権利を得た。<内面>,<精神>,<無意識>といった広大な領域を自由に探索し描く権利を得たのだから!
今,色や線は長い歴史から解き放たれ,初めてキャンバスの上を自由に運動することができることがゆるされる。
抽象画も,アンフォルメル,アクションペインティングもすべては,フォーヴ=野獣としての自由を絵が手に入れることから始まったのだ...
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そんなことをつらつら妄想しながら,あっちの絵をみたり,こっちの絵を見ていると,あっというまに閉館時刻になってしまったのでした。 続きを読む
仕事が終わるや,車で駆けつけました。このエントリーはその時の感想です。美術に関心のない方,読まない方がいいですよ。退屈されるのが関の山ですから。
美術に造詣の深い方も読まないで下さいね。所詮素人のつぶやきです。読むだけ時間の無駄でございます。
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ヴラマンクといえば,とある詩人の影響でキュービスムとの関連で捉えていたけれど,確かに展覧会の全体のから受けた印象はフォーヴィスムの画家,ヴラマンクだった。
ただ,見ていて<即座に虜になる>という画家ではない。マチスとは違う。無条件に人を虜にする(というか無関心のままにはさせておかない)明るい色使いや,躍動的なタッチではない。
でも,明らかにヴラマンクの絵,色,筆使いはフォーヴ=野獣だ。
どうして?なぜならそこにはある種の<解放感>がある。
一世代前の画家たち,つまり後期印象派や,セザンヌ,あるいはゴッホにさえない解放感がある。
おそらく,それは,ヴラマンクなどごくわずかの画家たちが立ち会えた,歴史的な解放感なのだと思う。恐らくヴラマンクを見ていて楽しいのは,その歴史的な開放感を,我々も彼の絵を見ていて共有できる(追体験)からなのだろう。
それは端的に行ってしまえば,ミメシス,つまり現実描写,模倣の掟の重圧からの解放だ。
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長い間,と言うよりも。絵というものがこの世に生まれて以来,つまりラスコーやアルタミラの壁画から19世紀後半〜20世紀初頭までの20,000年以上もの間,どんなに稚拙な絵,寓意的な絵であろうと,絵は目に見える外界の現実とのつながりを,完全に解消することが許されることは一度としてなかった。どのように崇高であろうと,どれほど幼稚であろうと,絵画はいつも,どこかで外界の現実,つまり歴史,意味,寓意などに奉仕することを義務づけられていた。つまり,どんなに神々しい(ジャンルにおいて,完成度において)絵でも,現実に仕える奴隷という側面がつきまとっていた。
なぜなら,そのようにしか我々は絵を見ることができなかったから。見たものをイメージとして伝える方法として,私たちには絵しかなかった。だから絵を見るときも,外界との関係を完全に無視することが出来なかった(卵が先か,鶏が先かみたいな話になってしまったけれど...)。外界,現実との距離で芸術の位付けがなされてきた西洋では,だから絵画はどうしても下の位に押しやられてしまう。絵画は,詩や音楽や,もちろん哲学よりも下に見られてしまう。画家は芸術家ではない,職人,絵描きさんでしかなかった。
ところがである!
19世紀,20世紀に,現実を描写するという賎しい仕事を引き受けてくれる,あたらしいジャンルが出現した。
もちろん写真と映画のことだ。
最初に写真家になったのは,当時の絵描きにさえなることができない,絵描きくずれの連中だった。また,映画が発明されるや,映画は世界中の奇妙な民族,風物,風俗を撮影すべく,世界中を旅した(発明当初,映画は日常を描写する道具としてか認知されておらず,物語を語るメディアになるとは誰も予想していなかった)。
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現実描写という賎しい仕事を写真と映画が引き受けてくれた(だって,すでに3次元にあるものを2次元に写し取ることが,創造的あでるはずがない)おかげで,絵画は歴史的役割を終え消え去るどころか,これまで音楽や詩だけに与えられてきた<高貴な役割>を得ることになる。
それを,真実と呼ぼうが,芸術家の内面と呼ぼうが,精神と呼ぼうが,絵画性そのものと呼ぼうが,名前などはどうでもいい。
歴史上初めて,赤は赤として,黒は黒として,つまり色は色として,そして線は線としてキャンバスの上を自由に駆け巡り,その存在の正当性を直接的に(つまり退屈な現実を経由することなく)主張できるようになったのだ。そして,絵画自体が<絵画と何か>と自らに問いかける自由,高貴な自意識を得たのだ。
ヴラマンクの絵にはそのような,歴史的自由が,絵画がようやく勝ち取った自由,高貴さ故の幸福感で満ちあふれている。
そう,フォーヴとは,今述べてきたような,現実への従属,現実描写という賤しい機能から解き放たれた,色,線,絵画そのものにほかならない。
写真や映画によって,絵は歴史や風景や光を描く正当性を奪われて,狭〜いキャンバスに閉じ込められたように見える。ところが実際は逆。写真に汚れた外界を押し付けることで,絵はキャンバスという広大な自由を得た。絵はキャンバスに解き放たれ,野獣として自由に走り,跳び,踊り,吠える権利を得た。<内面>,<精神>,<無意識>といった広大な領域を自由に探索し描く権利を得たのだから!
今,色や線は長い歴史から解き放たれ,初めてキャンバスの上を自由に運動することができることがゆるされる。
抽象画も,アンフォルメル,アクションペインティングもすべては,フォーヴ=野獣としての自由を絵が手に入れることから始まったのだ...
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そんなことをつらつら妄想しながら,あっちの絵をみたり,こっちの絵を見ていると,あっというまに閉館時刻になってしまったのでした。 続きを読む
Posted by 日曜日 at
16:06
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